タラレバは現実逃避に過ぎない
「あの時、ああだったら」
「もっと、こうしていれば」
「タラレバばかり言ってたら、仕事も恋もうまくいかないままこんな歳(アラサー)になってしまった」という女性たちのドラマが話題になっているようです。
見ていないので詳細は知りませんが、「あー、わかる」といった共感や「こんな風にはなりたくない」といった反響をよんでいるんですね。
タラレバって結局のところ、「逃げ」「現実逃避」「言い訳」です。
言っても全く意味がない。何の解決にもならない。
だからなるべくタラレバでものごとを考えないようにしたいと思っています。
でも、精神的に弱っているときとか、つい考えてしまうこともあります。
例えば介護だと、
「親が認知症にならなかったら…」
「もっとお金と時間があれば…」
介護に関してタラレバを言い出したらキリがありません。
でもそんなことを考えてみても、起きている現実は変わりようがないし、何の進歩もありません。自分がつらいだけです。
現実を受け入れて、それをどうするか考えて実践することでしか前に進むことはできません。
乗り越えられない試練はない
脳梗塞で入院していたサッカー元日本代表のラモス瑠偉さん。
先日の復帰会見でこんなことを話していました。
「神様にもう一度人生を与えてもらった。病気のひとに伝えたいのは、あきらめないこと。神様は乗り越えられない試練は与えない。」
毎日欠かさず懸命にリハビリをしたそうです。以前と同じようにボールを蹴る姿が印象に残りました。
「あきらめる」の本当の意味って?
現状を受け入れられるようになってから、(精神的な意味での)介護は格段にラクになりました。
遠距離介護ブロガーくどひろさんの著書「医者には書けない! 認知症介護を後悔しないための54の心得」のなかに、「あきらめ」の意味について記述があります。
心得43 あきらめも肝心!あきらめの本当の意味って?
「あきらめる」には2つの意味があります。
ひとつは「期待を放棄する」という意味があり、こちらが一般的に知られているものです。
もうひとつは元々のあきらめるほう、「明らめる」です。
明らかにする、すなわち「現実を受け止める」という意味です。
「受け止める」だけでなく、「受け入れる」という意味も「明らめる」には含まれます。
認知症の人のありのままを受け入れる、何の損得も考えず受け入れることができれば、介護する人も心穏やかに過ごすことができます。「認知症介護を後悔しないための54の心得」 p.156〜157より一部抜粋
ラモスさんの言葉にあった「あきらめないこと」。そこには2つの意味があります。
- 病気になったという現実は受け止める(=明らめる)こと
- そのうえで、リハビリをして回復するんだという期待を放棄しない(=諦めない)こと
ななのひとこと・ふたこと
目の前のつらい現実に向き合って、それを受け止め、受け入れるのはそう簡単なことではありません。でも、自分の意識の持ち方次第で、少しずつでも受け入れられるようになってきます。
私は、介護の物理的な負担は増えても、精神的な負担は介護当初より減りました。それは、介護に対する知識や経験が増えたことと合わせて、良い意味での「あきらめ力」がついてきたからだと実感しています。