ウソついてもいいの?大切なのはその人の気持ちに寄り添うこと

母の介護

NHKで一昨日放送されていた認知症の番組を見ました。
そのなかで、認知症の人に対してウソをつくことについて言及がありました。

積極的にウソをつくデイサービスって?

あるデイサービスでは、職員さんが積極的にウソをついているそうです。

例えば、お年寄りが「家に帰りたい」と言った場合

「今日は嵐で雨がひどいから、もう少しここにいましょう。先ほどご家族から、雨が落ち着くまで待っていてくださいと連絡があったんですよ。」

「今日、人手が足りなくて。そろそろみんなにお茶を出す時間だから、手伝ってもらえませんか?」

こうしたウソをついてお年寄りの関心を別のことに向け、落ち着いてもらうという作戦です。
また、役割(この場合、お茶をみんなに出すこと)を持ってもらうのも効果があります。

ウソの張り紙

デイサービスの出入口のドアは通常、お年寄りがひとりで出て行かないようにロックされています。
玄関まで行ってドアに鍵がかかっていたら、「閉じ込められた」と思って不安や不審に感じるのは当然です。

そこで、ドアに「故障中」「倉庫」などの張り紙をしておくそうです。
「今、故障中で開かないんですよ。あとで修理に来てもらうことになっているので、あちらに戻りましょう。」
そうすると、ドアが開かないことを納得してくれると紹介されていました。

番組内では「寄り添うウソ」として紹介されていました。 「騙す」「おとしいれる」などということではなく「その人の気持ちに寄り添って上手にウソを活用しましょう」といった内容でした。

「なるほど」と思う反面、使い方を間違えると、子供騙しと取られたり、かえって認知症の人を馬鹿にしかねない恐れもあるなと感じました。
特に、認知症の程度が軽い方には、ウソを見破られて「騙された」と思われかねないので注意が必要かもしれません。

ウソという言葉には多少の違和感を感じます。番組でも「ウソをつくことに罪悪感を感じる」と話している人もいました。

話しを合わせる

私は、母の言うことを否定しないで話を合わせるっていうのは、いつも心がけています。

唐突に母が話す内容は、意味や意図がわからないことが多いです。

最近多いのが、「それ、(値段は)いくら?」「これ、何本あるの?」
目の前に何かあるわけでもなく、それまでの話の流れがあるわけでもないんです。脈絡なく質問します。だからその質問の意味がわからないんです。

でもそこで「それって何のこと?」とか「は?何言ってるのかわからないけど?」などと言ってはいけません。
逆に母が混乱するからです。

だから「たしか500円だったと思うよ」「3本だよ」などと答えます。

そうすると、「へぇ、意外と安いのね」とか「そうよね、3本よね」と納得(?)してくれます。

でも、たった今話したことも母の記憶には残りません。私の返答を聞いた直後にまったく同じ質問をします。
「これ、いくらなの?」

番組での「ウソ」という言葉に違和感を感じたものの、真実ではないことや意味不明なことに話を合わせるのは、ウソをつくことと同意なのかもしれません。

そうだとすると、私も母に対してウソをついていることになります。だからといって話を合わせることに罪悪感を感じてはいません。大切なのは、母の気持ちに寄り添うことです。

母にとって大切なのは答え(500円とか3本とか)ではなくて、そのとき、その瞬間に感じる自己肯定感(言動を否定されない)や納得感(疑問が解消される、スムーズに会話ができる)なんだと思います。

認知症の人に理屈や正論をかざしてみても、何の意味もありません。嫌な感情を残してしまうだけです。出来事や話した内容は覚えていなくても、嫌なこと・不快なことは深く心に残ります。

会話した内容を覚えてなくてもいいんです。母が安心して心穏やかに過ごせるなら、同じことを何回聞かれても何回でも答えます。

行動も同じです。
例えば、ふたりで一緒にケーキを食べたことをすぐに忘れてもいい。一緒にテレビを見て、一緒に笑ったことを忘れてもいい。
何をしたか覚えていなくても、そのときその瞬間、おいしい、楽しい、嬉しい、そんな感情が残ってくれればそれで充分です。

ななのひとこと・ふたこと

来月、ようやく母は退院できそうです。退院したら、母とふたりで退院祝いにケーキを食べようと思います。