「認知症」という言葉の定義は?
「認知症」という言葉は、「痴呆」という呼び方が差別的だからと、2004年に厚生労働省が推奨し始めた呼称です。
(以下、本文では認知症はアルツハイマー型認知症という前提です。)
痴呆という呼び方に代わる呼称として当時検討されたのは次の6つ。
- 「認知症」
- 「認知障害」
- 「もの忘れ症」
- 「記憶症」
- 「記憶障害」
- 「アルツハイマー(症)」
国民の意見では「認知障害」が一番だったものの、最終的には認知症という呼び方が採用されました。
「認知症」
痴呆の本質を端的に表現すると、「認知障害により、社会生活や職業上の機能に支障をきたす状態・症状」ということになる。ここで、「認知」とは、覚える、見る、聞く、話す、考えるなどの知的機能を総称する概念であり、痴呆に関しては記憶機能の低下のほか、失語(言語障害)、失行(運動機能が正常にもかかわらず、運動活動を遂行することができない)、失認(感覚機能が正常にもかかわらず、物体を認知同定することができない)、実行機能障害(計画を立てて、それを実行することができない)などの症状が見られる。こうした「痴呆」の本質に着目し、「認知」を用いることとした案。語尾を病気の状態を示す「症」とするのは、「痴呆」の中には一部治癒若しくは症状が安定するものがある一方、他の多くの場合は進行性であり状態が固定していないため。
この「認知症」という言葉に違和感を覚える人は多いのではないでしょうか。
ひとつめの違和感
上記報告書には「認知」と「症」について、それぞれ以下のように記載があります。
「「認知」とは、覚える、見る、聞く、話す、考えるなどの知的機能を総称する概念」
「語尾を病気の状態を示す「症」とする」
認知症は「知的機能を総称する(=認知)という病気の状態」ということになります。
「知的機能になんらかの障害がある病気の状態」ならまだわかるんですが、「知的機能を総称する概念の病気の状態」って、日本語としておかしいです。
ふたつめの違和感
認知症という言葉が定義されるまでは、ボケや痴呆といった言葉が一般的でした。
私が小さい頃は「◯◯さんちのおばあちゃん、なんか最近ボケはじめてきたねぇ。」なんて会話はわりと普通だったように思います。
そこに他意はなく、歳をとれば誰でもそうなりうる、単なる老化現象だとおそらく誰もが思っていました。
でも「認知症」という言葉ができて、認知症は老化現象ではなくて「病気」だと定義されました。
「◯◯さんちのおばあちゃん、ボケちゃったね。いい年だもんね。」ではなくて、「あの人、認知症だって。脳の病気なんだよ。」なんて、なんとなく偏見にも似た考えが一般的になってしまったんじゃないかな、と感じます。
「脳が萎縮して、一度かかったら治らない。何もわからなくなる病気」だから「そうならないように予防が大切」だと、マスコミも必要以上に不安を煽りすぎではないでしょうか。
年を取れば、誰でも多かれ少なかれもの忘れをするようになります。それは当然のことです。
それなのに、ちょっとしたもの忘れにさえも「まさか認知症?」と不安を感じてしまう人が増えたのではないかと思います。
「認知という状態の病気」という定義、過度に誇張した情報、それによって植え付けられる先入観などが、多くの人に誤解を与えているような気がしてなりません。
ななのひとこと・ふたこと
ドリルも脳トレも、認知症予防のためにと、別に楽しくもないのにやるくらいなら、やらないほうがマシです。楽しんでやっているならもちろんいいのですが、嫌々やったってストレスになるだけです。そんなの脳にとっていいはずがありません。
コメント
こんばんは。 わかなまるです。
昨日の記事のことですが、認知症でなくても「術後せん妄」にたいする拘束の可能性への同意書にサインを求められた事があります。 相棒の時ですが、拘束、という言葉に、なんとも言えない嫌な気分になりました。
認知症の人が受ける身体拘束については、私もよく考えさせられる事です。
私の母は昨年9月に盲腸炎からくる腸閉塞で入院しましたのですが、フィジカルロックと、ドラッグロックはありました。と、カタカナの言い方は暴力的に感じますね(´・c_・`)
うちの場合、24時間付き添いだったので、付き添いで対応できない場合ぐらいだったのかもしれません。
イレウス管を入れられている姿だけでも見ていて痛々しいのに、 何度もイレウス管を抜いてしまいそうになったり、点滴を抜いてしまったりするので両手にミトンをつけられていました。
やはり、付き添いがいて母の様子が落ち着いている時ははずしてくれた事もあったように思います。
抜いてしまうとまたシンドイ事になるので、なるべく鼻に意識が向かないように、いろんな世間話をしたり、「病院は乾燥してるからね~。手が荒れてしまうからつけてるんだよ~。」 と話していましたが、それでもちょっと目を離した隙に・・・ってことは何度もありました。看護師さんたちの管理のしやすさもあるでしょう。でも悲しいけど仕方ない場合もあるように思います。
紙オムツのことは、ななさんと同じ気持ちです。 術後、「トイレに行きたい」と母に言われ、尿意や便意があるんだから、ほんとは連れて行きたい。 今だったらきっとなんとかして連れて行く手立ても気持ちもあるけど、 当時は、もう動かしていいのかという不安と、病院に対する遠慮?のような色んな気持ちで、 「いま、動くの大変だからね、そのまましてしまって大丈夫よ~」と言いながら悲しかったです。
長々とすみません。
お母様の入院はまだ長引くんでしょうか。どうかお大事に。
わかなまるさま
「拘束」っていう言葉にはとても悲しい気持ちにさせられますね。
イレウス管ってはじめて知りました。想像しただけでもすごく痛そう。。それなのに自分で自分の体を触れないなんて、ある意味ほんと残酷だと思います。
病院に対する遠慮って、やはり感じられているんですね。
看護師さんの忙しそうな姿を見ていると、ちょっとしたことさえ頼むのを躊躇してしまう自分は、母のことより看護師さんを優先しているのか、なんて変な葛藤を抱いていたんですが、わかなまるさんもそう感じていると知って、なんとなく気が楽になりました。
私も母に、わかなまるさんと同じようなことを話しています。
ミトンは「手がすべすべになる手袋しよう」
抑制帯は「お腹冷えると大変だから腹巻きしておこうね」
母は「あら、そうなの」なんて返してくれるのですが、そんな見え透いた嘘をつかなければいけない自分を嫌になったり。仕方ないと割り切るしかないんでしょうけど。
母の入院は少なくともあと1ヶ月くらい続きそうです。入院中って、病気の心配はもとより、こうしたことでも葛藤したりで精神的にも疲れますね。。。
なんだか愚痴っぽい返信になってすみません。
コメントいただいて嬉しいです。ありがとうございます。