東日本大震災から明日で6年になります。
いまだに復興が進んでいない地域や被災された方々のことを思うと心が痛みます。
同時に、それは決して他人ごとではなくて、いつ自分の住む街で大地震が起きてもおかしくないことを忘れてはいけないと強く思います。
あの日を忘れない
ヤフーが銀座ソニービルに掲げた、文章だけの広告が話題になっています。
岩手県大船渡市で記録された最大の津波の高さを表す16・7メートルの部分には赤い横線で「ちょうどこの高さ。」と書かれています。
津波の脅威を想像し、防災意識を忘れずにいてほしいとの思いが込められているそうです。
以下、広告原文を引用します。
3月11日。この日が
来るたび、私たちは
あのときのことを
振りかえる。東日本
大震災から、早くも
6年が経った。災害
なんて、もう起きるな。
毎年のように私たち
はそう思うけれど、
災害はいつかまた、
たぶん、いや確実に
おきてしまうだろう。
あの日、岩手県大船
渡市で観測された
津波は、最高16.7m。
もしも、ここ銀座の
真ん中に来ていたら、
ちょうどこの高さ。
想像よりも、ずっと
高いと感じたはず。
でも、この高さを知っ
ているだけで、とれる
行動は変わる。そう。
私たちは、今、備える
ことができる。被災した
人たちの記憶に想像
力をもらい、知恵を
蓄えることができる。
あの日を忘れない。
それが、一番の防災。
ヤフーはそう思います。
そのとき母はどうしていた?
3月11日のことを思い返してみようとしたのですが、母とやり取りした(はずの)ことを意外と覚えていないと気づきました。
地震発生時、私は会社にいました。
震度5弱の大きな揺れに驚いて、自宅にいた母に電話をかけたはずなのですが、電話が繋がったかどうか、実は覚えていません。
当時、すでにもの盗られ妄想に悩んでいたものの、母は家事も自分の身の回りのこともできていました。
だから私はまだわりと自由に過ごしていました。
その日も、もともとは友達と飲みに行く予定でした。でも、電車が止まっているとか、各地で停電が起きているとか、徐々に被害の大きさが分かってきて、さすがにこれは飲みに行っている場合じゃないと気づきました。
親切な同僚に助けられた
なんだかんだしているうちに17時を過ぎてしまいました。どうやって家に帰ろうかと思っていたところ、とてもありがたいことに、家の近くまで車で送ってくれるという同僚が現れました。
その人は、会社から徒歩10分くらいのところに住んでいるのに、地震が起きてすぐに(普段から契約していた)カーシェアリングで車を予約したそうです。
「これは電車が止まるに違いない」と思って(自分は歩いて帰れる距離だから必要ないのに)、帰宅困難になる人を送ってあげようと、とっさに車を予約したと話してくれました。
私を含め4人を、それぞれの家の近くまで順番に車で送ってくれました。あの日、何時間もかけて歩いて自宅まで帰る人がほとんどだったなか、彼のおかげで私は、会社を出て4時間弱後の夜11時前に家に帰ることができました。
機転がきくし、なんていい人なんだろう、と、今でもその同僚には感謝しています。
家に帰ったあとの母とのやり取り
家に着いたとき母はまだ起きていたと思いますが、母と話したことをはっきりとは覚えていないのです。
「かなり揺れて、ひとりだったから怖かったの。ななちゃん(←私のこと)が帰ってきてくれてホッとしたわ。」と母は話していたような気がします。
幸い、家の中は落下したものなどはありませんでした。
お互いの無事を安堵しつつ、そのあと明け方まで、テレビに映る火災や津波の映像を、母と一緒にずっと見ていました。
薄れていく震災の記憶
母が要介護認定をはじめて受けたのは2011年4月。東日本大震災が起きた翌月のことでした。
震災が起きた夜、ふたりで衝撃を受けながら一緒に見た大震災の被害は、母の記憶からだんだんと消えていきました。
その後、テレビで繰り返し放送される津波の映像を見ても、「えぇ、どうしたのかしら。大変なことが起こっているわよ。」と、まるで今はじめて起きていることのように話すようになっていきました。
ななのひとこと・ふたこと
あの日、母は何が起こったかを理解していました。
今回振り返ってみて、6年前はまだ、起こったことを理解できてたんだな、と思い出しました。
たった6年前?それとも、もう6年も前?
この6年のあいだの、母(と私自身)の変化を改めて思い起こしました。