平穏死について考える。「平穏死10の条件」「平穏死のすすめ」を読んで

書評

入院した際に延命治療について言及されたのがきっかけで、簡単には結論の出ない延命治療について、少しずつ向き合ってみようと思っています。最近、こんな本を読みました。

  • 平穏死10の条件
  • 平穏死のすすめ

2冊とも、延命治療に否定的な考えを持つ医師により書かれた本です。

平穏死とは「平穏に最期を迎える」こと

「平穏死10の条件」では次のように書かれています。

平穏死とはその言葉の通り「平穏に最期を迎える」ということです。自然に穏やかにあの世へと旅立っていく。

生命の終わりには、死を先延ばしにする延命治療を受けないという選択肢もあります。

「平穏死10の条件」p.28 より

死期の迫ったお年寄りに過剰な医療(≒延命治療)を施さず、自然な最期を迎えてもらうこと。言い換えれば「自然死」ともいえます。

終末期医療に対する欧米と日本の違い

欧米では寝たきり老人はいないといわれています。過剰な医療や延命治療は行われないからです。

「人間は口から飲食ができなくなったら、生命活動が終わりに近づいているということ。自然で安らかな死を迎える準備段階に入った。」と考えるのが、欧米では主流です。

日本でも昔はそうでした。人工的な栄養補給をせず、自然な死を迎えることが、当たり前のことだったのです。

平穏死できない現実

「平穏死10の条件」の第1の条件は「平穏死できない日本の現実」について書かれています。

今の日本では、病院で平穏死をするのは難しいそうです。

多くの人が平穏な最期を望んでいるにもかかわらず、です。

終末期の患者が病院に入院すると、延命治療を受けるのがほぼ必然となっています。もちろん強要されるわけではないのですが、医師の多くは延命治療を勧めます。

そんな状況下で、家族に考える余裕はまずないと言っていいでしょう。多くの家族は延命治療を選択すると思います。

そして、たとえ意識がなくなって、ただ生かされているだけの状態になったとしても、一度始めた延命治療はやめることはできません。こうなると、平穏死はできなくなります。

救急車を呼んだらどうなるかを考える

「平穏死10の条件」の第7の条件では「救急車を呼ぶ意味を考えよう」と述べられています。

「救急車を呼ぶ」ということは、蘇生、それに続く延命治療への意思表示です。

「平穏死10の条件」p.124 より

終末期を迎えた高齢者が救急車で搬送されるということは、搬送された病院で延命治療を受け、植物状態のまま生きながらえる可能性を否定できません。

救急車を呼ぶということは、平穏死を拒否し、延命治療を受けたいという意思表示になりうるということです。

「「平穏死」のすすめ」より引用

「「平穏死」のすすめ」で述べられていた内容がとても印象に残ったので、ここに引用しておきます。

老衰のために体に限界が来て、徐々に食が細くなっていって、ついに眠って静かに最期を迎えようとしているのを、どうして揺り起こして、無理矢理耐えなさいと口を開けさせることができましょうか。

現場を知っている者からみると考えられないことです。もう寿命が来たのです。静かに眠らせてあげましょう。これが自然というものです。これが平穏死です。

「平穏死」のすすめ p.187より

ななのひとこと・ふたこと

いざその時になったとしたら、延命治療をする/しないという選択を、迷いなくできるのか、正直なところ、自信がありません。

しないという選択をしても、あとになって「やっぱり延命治療すれば良かった」と葛藤や後悔をするような気が、今はしています。